中也の詩には今も日本語の温かい響きがする。チャルメララッパの味がする。
邦画は見ない。最近少しだけドラマなら見始めた。偏見まじりで言うなら、邦画とは凡そAVの前哨戦と呼ぶのがお似合いである。かもめである。女優を合法的に裸にするだけの活動である。それで監督が自己満足に浸る、そういうものだと思っている。
ゆきてかへらぬ、長谷川泰子の著作
1902(明治35年)小林秀雄、湯田温泉に誕生
1907(明治40年)中也、湯田温泉に誕生
1923(大正12年)中也、ダダイスムに傾倒
1923(大正12年)中原中也と出会う
1924(大正13年)小林秀雄、ランボーを知る
1924(大正13年)中原中也と同棲
1925(大正14年)小林秀雄、帝大入学
1925(大正14年)中也、小林秀雄と出会う
1925(大正14年)富永太郎死去
1925(大正14年)小林秀雄と同居
1928(昭和3年)小林秀雄と別れ
1928(昭和3年)中也、春と修羅を知る
1928(昭和3年)田河水泡結婚
1929(昭和4年)様々なる意匠
1929(昭和4年)小林、ランボー訳詞を出版
1929(昭和4年)のらくろ
1930(昭和5年)中也、泰子の子を命名
1931(昭和6年)泰子、中也の紹介で青山二郎と出会う
1932(昭和7年)Xへの手紙
1933(昭和5年)中也、ランボー訳詞を出版
1933(昭和5年)中也、結婚
1935(昭和10年)ドストエフスキイの生活
1937(昭和12年)中也、死去
1937(昭和12年)日中戦争
歴史的には、凡そ大正5年頃に鬼殺隊が無惨様を打ち倒している、それから五年後の物語である。年表を見る限り、なぜ中也と泰子であるかは難しい。
中也は夭折したが、もし戦争を生きていたらどうだったろうと考える。彼の繊細な神経は耐えられなかったのではないかとさえ思う。もしかしたら湯田温泉に戻って古書店の店主として長生でもしてくれていればという気もしないではない。
いずれにしろ、泰子が主人公であり、中也がメインであり、小林がサブである。だから、面白いのはなぜ中也なのか、という所であって、小林が従であるのはしかし分かる気はするのである。
関係性で言えば、その長さからも小林の方が深い筈である。しかし、その後を見るなら、中也の方に分がありそうでもある。しかし、その関係は恋愛とは異なる気がする。互いのミューズであった、そんな結論など糞食らえである。
なぜ、中也との関係がメインとなるか。その後の三人の関係性が強く残っているのだとしたら、その印象はふたりの性格にある気もする。深くかかわり、遂には逃げ出した小林と未練なのか倫理なのか近くに留まった中也と。
広瀬すずの演技は良くは知らない。CMを見る限り、最高の一人であって、特にその肋骨の存在感が極上によい雰囲気がある。そういう肉体の使い方をしており、その体躯の魅力では世界でもトップにあると思える。
彼女の体の使い方、肋骨の存在の上に、両腕と顔がのっかている。それらの位置関係に表情の巧みさが添え物として面白さを見せている、立体構造を追求したフランス料理の一皿の様でもある。
演劇が上手いかどうかは知らない。CMは良作が多い。もちろん三井不動産とも積極的に関係するなど、社会的批評には興味なさそうではある。雰囲気としてはばりばりの与党支持、強い側で十分という感じがある。
かつての舌禍「どうして生まれてから大人になった時に照明さんになろうと思ったんだろう?きっと大人になって年齢を重ねると共に本当に棒を…声を録るだけでいいの?」から、さて、どれほど学んだんだろうという気もしないではない。彼女はクレバーだから同じ失敗はすまい。少なくとも加齢で前頭葉が衰えるまでは。
それでも心の底では全く変わっていない感じが匂い立つ。そこはかとなくココ・シャネルと同じ雰囲気がある。もちろん全てこちらの勝手なイメージである。だがイメージを受ける側にも問題があるなら、与える側にも何かがある。偏光によってこちらが歪んでいる気もしないではないが。
俳優というものにとって演技こそが善でありそれ以外は敢えて言おうカスである。役者は演技で見せればいいのである。まして演じている時の心の内などどうでも宜しい。今夜のとんかつを想いながら子を失う母を演じても何ら遜色はない。
しかし、演じる為には脚本を読み込み、そこに人間と名づくキャラクターを作り上げる必要がある。背景にある社会の様々な側面を知っておく必要がある。社会で虐げられている人、虐げている人、そうして幅を広げておく、そこで何を感じるかは些末に属する。キャラクターは決して人間の再現ではないのである。ここ重要。
これから中也と小林の配役も発表される。広告の出し方として最大限の注力をする筈である。流石にアニメはコスプレしても実物の実写でコスプレ感はないだろう。どちらかと言えばキャラクター感が重要、そこにリアリティがある。だから誰が配役かにみんなが注目する。自分の中では玉木宏とか、そういうイメージもあるが、難しそうではある。
だからこの仕事を引き受けた人には相当なガッツがあると思う。尊敬。
時こそ今は、中也による薄暮の曲からのオマージュ詩であるらしい。
時こそ今は花は香炉に打ち薫じ、
そこはかとないけはいです。
いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打ち薫じ、
ゆきてかえらぬは中也の詩でもあるらしい。
さてその空には銀色に、蜘蛛(くも)の巣が光り輝いていた。