上川陽子外務大臣 静岡県知事選の応援演説での「うまずして何が女性か」発言を撤回

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上川陽子 外務大臣
「(この方を)私たち女性が生まずして何が女性でしょうか。生みの苦しみは、きょう男性もいらっしゃいますが本当にすごい。」

「女性パワーで未来を変えるという、私の真意と違う形で受け止められる可能性があるという指摘を真摯に受け止め、このたび撤回をさせていただきたいと思います。」

 

見事なダジャレの中にはその見事さに非常に関心できるものがある。とは言ってもそれはアマチュアで日常で聞くからである。それをプロがやるなら相当の腕がいる。素人だから笑える、酒の席だからクスリと笑える所がある。

 

さて、そこで政治家の出番である。笑いのプロではない。当然である。だから素人である。当たり前である。とは言ってもある意味では演説のプロである。議会民主主義である。言論の府である。当然である。とはいえ、政治家の本質はサービス業ではある。

 

だが、なぜリップサービスと言えばみなダジャレに走るのか。お笑い芸人は劇場と観客が育てる。だが政治家には愛想笑いしか返ってこないから芸が育つわけがない。

 

そもそも年齢の問題がある。年を取れば脳が老化するのは自然である。そうなると笑いといっても相当に単純なものに走る。ダジャレが面白いお年ごろなのである。男(麻生)のすなるを女(上川)もしてみむ、という訳である。

 

で笑いを取りに行く時に所詮はアマチュアである。そう深い考えはないものである。笑いに全てを賭けている人生ではあるまいに、最後は冗談で済ませるくらいの気概でつい言ってしまう。その場限りで楽しくやろう。その何が問題か。

 

だから自分の中にある偏見も、自分の中にある信念も出やすいという特徴がある。まして世間は時々刻々刷新されている。どうしても加齢した人間にはついてゆけぬ所も多い。まして先端にあって時代の結論さえ出ていない問題においては。だから社会、世間をどう見ているの本音が言ってみると失言と言われる場合もある。

 

足りないのは配慮ではない。気分を害すでもない。その一言に対しる嗅覚の無さである。これが国内の選挙だからどうでも良かった。もし外交の公式の席だったら、冷や汗では足りない。何かが気になる、普通はそういう場合は慎重に口に出さないものである。それでも口にする場合は、心からの叫びの場合が多い。だから気持ちを打つ。

 

当人は女性である。だから集合は女性の側である。その女性が女性自身の生殖と関連付けて、その大変さを知事選と掛けた。いいアイデアと本人は思った筈である。でなければ口にしない。

 

だからと言って知事選に出馬する事、当選する事を「生む」または「産む」という比喩するものだろうか。これは隠語か、または方言かと最初は思った。

 

我が町から政治家を生み出そう、というのなら聞いた事がある。この村から県知事を生もうならある気もする。違和感はない。この場合の「生む」は「送り出す」と同じ意味である。地域とかコミュニティと生むの関係性である。だから、明確に比喩である。町が子供を産める筈はないからだ。古事記ではあるまいに生める訳がない。

 

ダジャレは絶対に結びつかないものを結びつける所が面白い。その発想の飛ばし方に関心する。俳句と似たようなものだ。

 

「この方を私たち女性が生まずして何が女性でしょうか。」

 

この「うむ」がこの人を県知事にしましょうという意味だとする。すると、私たち女性が彼女を支えて女性のガッツを社会に見せつけてやりましょう、くらいの意味合いになるかと思われる。応援である。士気を鼓舞したいのである。

 

当然、この場所にいる人たちは支持者である。みな自分の見方である。可能なら他の候補者を鬼畜米英くらいに行って盛り上げたかったのであろう。下手である。余りに言語として下手である。

 

主語と述語がまずい。県知事として送り出したいのは当然、自民党支持者たちの思いである。それに女性という大きな主語を持ち出した。これは直ちに自民党支持者でない人に女性は居ないという解釈が成立する。

 

更には女性は人間だから、自民党支持者でない女性は人間ではないという意味も通用する。私たち女性に非自民支持者は含めていない。当然である。自民党推薦候補の応援なのである。身内の話が外に出たという感じだろうか。だから料亭育ちはわきが甘いと言われるのである。

 

最初にニュースを見た時は候補者は女性だと思った。だから産むに引っ掛けた、そう信じた。所が候補者は男性だった。男性を送り出すのに女性という主語。これは女性であるなら応援して当然という言い方になる。例え女性だけの集会だとしても。ここで男を選ぶ自由さえ放棄した感じが強まってくる。党が選んだ男性候補者を女性が支持しないならなんのための女か、という話である。統一教会かよ。

 

  1. 女性の中には支持者でない人もいる
  2. 何が女性でしょうかという問い掛けには女性否定が含まれる
  3. 男性候補者の選択を女を理由に上から決められ従うしかない雰囲気がある

 

仮に女性候補だから女性として応援しようなら分からなくもない。女性の本当の悩みには女性にしか分からない部分は必ずあるだろうから。厳密には論理的にはアウトかも知れないし全女性は言いすぎだと思うが共感としてやぶさかではない。だがこの男性候補者を女性だから応援しようでは意味が通らない。

 

そもそも県知事の投票に男も女も関係ない筈である。争点に女性差別があるなら別だが、そういう話ではなかった筈である。女性差別で辞職した訳でもない。確か肉体労働への差別意識だった筈である。だが本当の争点はそんな話ではなく、たしかリニアに関する水利権だった筈である。

 

もちろん、居酒屋でなら別に構わない。政治家が問題になるだじゃれを行った時はだいたい居酒屋談義なのである。そこでなら笑えるレベルである。だのに酒に酔ってない舞台に持ち込むとはいい度胸をしている。絶望である。

 

ねずっちになりたくてなれなかった人たち、政治家のスピーチにはねずっちのなりそこないの屍が累々している。もうひとひねりがあれば、まだしも。それを自分は面白いと思っている節がある、少しは。

 

女性を鼓舞したかった、その言や良し。そこで安易に出産と結び付けた。なんたる愚策、そういう感じと思う。とはいえ麻生太郎と比べれば全然軽い部類なのである。凡そ男女差別はこの辺りにも潜んでいる。その麻生でさえ健在である。直撃なるも被害軽微、運行に支障なし。