【速報】「つばさの党」代表者ら3人を公職選挙法違反の疑いで逮捕 今年4月の東京15区補欠選挙で他陣営への街頭演説妨害行為で

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公職選挙法違反は裁判所の判決を待つしかなく、我々が考える必要はない。恐らく判決はそう難しくなく有罪と思われる。不当逮捕でもあるまい。警察も行けると判断したから踏み切った。

 

そこでは証拠と法律だけが問われる。ある条文を読み、証拠を見比べて、判断する。そこに善悪も倫理も入る余地はない。

 

その前提に立てば、もちろん当選していたら話は別だったであろう。政治家の特権は警察権力とも渡り合う様に作られている。だからといって政治家が腐敗すれば国家は何時の時代も倒壊してゆく。そうでなくとも古くなれば斃れてゆく。

 

しかし、このチンピラまがいの脅迫的暴力的対話を選挙活動の核とした事は十分に考えておく必要がある。ヒットラーが政権を取ったのも、基本的には突撃隊SAのお陰である。そして政権を取ったら見事に粛清した。その後はヒムラーの親衛隊SSが重用され、ナチスの悪名の殆ど全てを請け負った。

 

これは政権奪取を目指す勢力が取り得る手段であって、今はまだそのような組織だった行動は観測されないが、もちろん、日本国内のネトウヨを見れば、雇用さえ保証すれば成立する手段である。そのための資金を誰がどういう名目で出すか、それを法的に制限する手段はあるか、シミュレーションは今からやっておく方がいい。

 

それを行うのは警察である。プーチンは秘密警察を支配する事で、ロシア国内で起きるあらゆる困難を排除した。公式には暗殺などした事はない筈である。ロシアは律儀に文書保管をする国家だからプーチンが排除されたら情報公開されるはずである。

 

そういう中で演説中に妨害行為に出る者が出現した。暴力ではない、言論の自由を訴えるが、十分に暴力的な言論である。脅迫的な振る舞いである。一種の気違いは暴力から始まるのではない。それ以前から始まっている。だから脅迫は犯罪なのである。

 

逮捕時のピース姿を見てもまだ舐め切っている訳で、その辺はガーシー(東谷義和)も同様であった。警察官だって馬鹿ではないから、相手の弱みを見たらそこを徹底的に追及する。その部分については日本の警察もロシアの警察も変わりはない。

 

群馬県での朝鮮人追悼碑破壊に対するデモに対して群馬県警が取った手法は、明らかに脅迫である。その意味ではデモする側にもアジテータは潜ませていた筈である。状況が動けば暴力事件に発展させる。逮捕者を出す事で世論の動向を支配したい。それで県政がどうなるかは知らない。あの県知事を選んだ群馬県民が考えればいい話しである。

 

この事件と対比されるのが 2019年参院選での安倍晋三の街頭演説で起きた事件である。安倍晋三へのやじに対して北海道警が介入した。やじは言論の自由であるか、または北海道警の介入は適法であるか。政権与党への忖度としての取り締まりではないのか。警察の第一の能力は脅迫である。

 

原則として、どのような状況であれ街頭演説は聞くべきである。さて、するとヤジは排除の理由になるか。国会審議を見ても分かるように質問中にヤジを飛ばす議員も寝る議員もそれぞれの自由である。中には下衆の極みのようなヤジをする議員もいるが、ハラスメントでない限りはやじは認められる。安倍晋三も国会中はそうとうにヤジが好きな人だったらしい。

 

だが、ソクラテスの時代から、討論が本質であって、ヤジはガヤである。たまにうまい事を言う場合があるから楽しみにしているマニアもいるが、基本的に妨害はしてはいけない。まして演説が聞こえなくなるのは別問題である。

 

選挙民にとって重要なのはコンサートではあるまいに、演説を聞いて投票先を決める為にある。だから静かにすべし、静かに聞けぬならその場にいるべきではない。妨害はいつ何時も排除されるべきである。その意味ではヤジもガヤも違反である。

 

よって演説中に自分も演説を始めるのも違反である。一度に一人しか言葉を発する権利を持たない。セマフォを全員で共有しているのが演説の基本構成であろう。一度に発声していいのは一人だけである。

 

しかし、場所の取り合いなどもあって、それは交互にすべきであろう。だが、幼稚園児ではあるまいし、そこまでする必要ある?というのがこれまでの方法論であった。お互いさま、譲り合って選挙を戦いましょう。

 

そこに園児が入り込んできて暴れだしたという図式である。法律違反でないなら、言論の自由であるなら、何も違反していない、という主張で選挙活動を行った。恐らくそれはインターネットでのバズる手法、インプレゾンビの手法を採用したのである。目立つ方法論にSNSの方法を取り込んだ。

 

だが、それで勝利できるはずもなかった訳である。熱烈な支持者は獲得できたであろうが圧倒的多数ではない。ヒットラーでさえ政権奪取後には突撃隊は粛清したのである。物事には有効な方法を有効な場所で有効なタイミングで活用する必要がある。

 

政治とは目立つ事ではない、知名度を上げるために犯罪覚悟でやったと当人たちは自覚を持っているだろう。それに成功したと自負をしている。だからピースサインも出た訳だが、世間はもう名前も存在も忘れている。親ではあるまいにそこまで他人に興味はない。

 

警察の前では無力であったし、警察を任意に動かす安倍晋三小池百合子ほどの力も持っていない。安倍晋三は不運にも警察の隙を突いた統一教会被害者によって暗殺された。この件に関しては警察内に手引きした人間がいるとは聞かない。ガチで警備がざるだったのである。だが、それは仕方がない。警備の主要な想定は刃物だったはずである。手作りの銃、それが機能するなど国内では通常は想定しない。

 

演説中のヤジやガヤは基本的に認めるべきではない。対話がしたいなら、別の場所で政治家の意志によってやるべきである。演説の妨害は許されるべきではない。それは民主主義市民の唯一の権利ともいえる投票権の侵害だからだ。

 

民主主義政体への敵対行為である。我が国の寄って立つ所は最終的に選挙の健全性にしかない。

 

だからと言ってヤジを排除するために警察を動員するのは、厳密には日本警察のロシア警察化へではないか。その端緒となるから、たいていの多くの政治家はヤジを受けても何も言い返さない。言い返すにしても対話という形をとる。

 

反論しない事が言論の自由であると知っていたから。それを許容する事が自分が権力の乱用を戒める人間である証拠だから。だから演説の邪魔となるようなヤジを飛ばす者も少なかったのである。

 

歌舞伎における大向こうは、演者と観客の間の阿吽の呼吸がある。きちんとセマフォを確保してから入れる。そしてすばやく手離す。そういう呼吸がある。それが自然と劇場の中で形成されていた。

 

だから下手な観客が劇の邪魔をするような掛け声をすれば注目である。下手をすればチケット代を返せである。だが、たいていのケースは、それは新しい人が育つための許容だと認識している。

 

新幹線だって勝手に自分の指定席に座っている人がいれば、車掌を呼んで抗議して別の座席を用意させ、座っていた者から指定席代を取るように要求する。

 

ヤジにはイベントとしての阿吽の呼吸がある。それを知らない者が入り込んだのか、それとも悪質と呼べるものか、それは現場の目撃者とならなければ分からない。現場にいても立場が異なれば感情は異なる。

 

憎悪や誹謗中傷からは、何も生まれない!こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです。

 

安倍やめろは憎悪や誹謗中傷だろうか。そういう語気があったのだろうか。謂われた側としては気分は悪いだろうが。

 

ヤジやガヤがどこまで許されるか。それは言論の自由ではなく投票権の侵害で考えるべきだ。言論の自由を主張するなら、誰かの演説中は沈黙のみ許される。その言論の自由を制限してでもヤジやガヤが許されるためにはお互いの許容というものがその場所に必要である。これを勘違いして何もかも自由と認識した人が出現するのは社会の常識が失われていると解釈するのは余りに脆弱である。

 

警察の介入はどういう場合にどういう責任で許されるか。どういうヤジなら危険で排除すべきか。それはケース毎に判断するしかない。そこには全員が支持者も不支持者も含めて全員で共有するべきものがある。

 

しかし、ある権力者にのみ忖度し公平性を保てない警視庁、群馬県警、北海道警のようなケースはどの対処すればよいか。ロシア警察に市民は苦労している筈である。ロシアのような顛末に至るのは本当に簡単なのだ。

 

選挙活動の一環として組織的活動する突撃隊的な運動は取り締まる。もし選挙演説している場所にデモをしている人たちが乱入してきたらどうなるか。デモ隊が立ち止まり周囲を取り囲み、沈黙しているとしたらどう考えるべきか。それは明らかな恫喝行為である。演説を聞きたい人も近づけないでいる。

 

およそ警察はその経路のデモを許さない筈である。それを無視したら取り締まる事は合法である。凡そ暴動に発展する可能性がある。なら演説する側は場所を変えるのか、それは明らかな侵害と思える。

 

暴力ではない恫喝的手段というものが今後も開発されるであろう。特にネトウヨを率いる人にとってそれは有望な筈である。馬鹿を装えば幾らでも餌は釣れるのである。大物を狙うのに何も惜しくはない。今回は余りに幼稚だっただけである。この方法論はまだ開発する余地がある。

 

つまり試してみる価値がある、この点が民主主義の危機と直結している。そして民主主義の強さとも直結している。