ふるさと納税、東京からも競争に相次ぎ参戦 都内から流出857億円

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ふるさと納税は、国税が減収し分配機能を果たせなくなった財務省が打ち出した自立のための施政だと思う。これから地方はますます財政的に厳しく、首都圏だけが伸長する、その予測に基づく仕組みである。

 

その為のふるさと納税であるが、やっている実質は小売業であって、その意味では民業圧迫、または協業である。このモデルケースはインターネット販売、それを支える流通力の確保によって実現している。よって競合相手はamazon楽天が含まれる。

 

社会主義国家のご多分にもれず、官が行う民業はだいたいが失敗するのである。所が官が裏方に徹する限りは成功例も多数ある。道の駅しかり、ふるさと納税しかりである。競争相手は世界の全てであり、そこでは地域の強みを最大限に自ら発見し発信しない限り商売は成立しない。

 

そういう資産を持つ地域が売り方のノウハウを高める。特に自治体がバックにあるという信頼感は有利である。かつ、どうせ払う税金なのである。通常は何ももらえないのにふるさと納税ならば何かが手に入る。その手間暇はamazonとそう変わらない。

 

この競争が高まってゆけばどうなるか。日本の市町村は1718ある。統廃合してもこれだけのショップがインターネット上に存在するポテンシャルを持っている。その市場は税金であるから買う側の負担ではない。どうせ取られるものである。ならば何かと交換する方がいい。

 

これは市町村側からすれば通常の税の徴収よりも実入りは少ないはずである。しかしAからBの付け替えという点でパイは大きくなっている。他地方の税を奪いという点では、バイキングのイングランド略奪とそう大きく変わるものではない。日本なら伊勢新九郎駿河館襲撃みたいなものか。

 

もし法律上可能であるならば、この納税は国家を超えてもよいはずである。しかし一般的にそのような税を許す国家はない。よってこの政策は確実に中央国家が地方自治体に対して、来るべき時代の準備を促しているという話である。ますます室町幕府の終わりみたいである。

 

そもそも税とは何かという議論は、税が当然という社会が構築されて既に2000年以上も経過しているから不明点が多すぎる。人間の集団が発生した時にどういう形で税は生まれたのか。現在の野生動物で税的役割を果たすものは余り見つからない。アリなどのシン・社会性生物でも税はないと思われる。

 

人類に共同所有という考え方があったのならば、公共に対する財政の捻出という考え方が登場するのにそう不思議はない。もし王が武力を背景に徴収するならそれは略奪であろう。それを税という考えに昇華するにはどうしても公共という概念がなければならない。

 

すると税の前に公共という考え方が生まれたはずで、公共という考えを支えるのが平等公平という概念だとしたら、まず不平等に対する不満はその頃から感じていたという事になる。つまり分相応という気持ちが生まれるには社会的な背景に相当な概念が幾つも必要という事になる。

 

AとBを比較するという能力が高い事がホモサピエンスの特出すべき点であるとは思われるが、不平を感じる為には自分と相手を比べる必要がある。のみならずそれを正当とするための根拠、説明が必要である。その為には先ず自分を評価する能力が欠かせない。

 

そのための自意識の獲得は、確か何かの映画のテーマだったように思うが(人類創世)、自分と他人を比べるは幼児でも行うので、可なり早い時期から、その比較の仕方を一定の内容に強制する事が教育の役割だったと思われる。階級を子供に押してるのはハイエナやサル(人間もサル!)の社会でもやっている事である。不思議はない。

 

自分の存在を社会における立ち位置に組み込むのは階級社会では必須であるしそれを受けれて初めて円滑な生活が可能となる。例え悲惨な奴隷階級であってもそれは必要だったと思われるのである(例えばロシア農奴とか現在のロシア人)。こうして、多くの階級を生み出した結果として、財産の所有量は階層毎に分類されその所有量が階層を決める。逆に言えば所有量が変動すれば階級も変動するという意味になる。

 

階級に応じて富を吸い上げる仕組みが税の基本であるならこれは食物連鎖における鉛の蓄積などと同じ振る舞いをする。だが税は最終的には社会契約の根底という側面も持つ。これが行政をシビル・サーバントと呼ぶ所以である。つまり税とは職員の給与という側面である。

 

確かに石油資源の豊富な国家の中には税金のない政府もある。しかしこれは市民税がないだけであって、何等かの形で国庫に納める税はあるだろう。資源の売買の過程に法人税のようなものがあると考えられる。そうでなければ誰かのポケットマネーで治めている事になり、それでは近代国家としては杜撰という事になる。

 

貨幣発行権を持つ国家においては、確かに税はインフレを抑制する働きがあり、発行し流通している貨幣を国が取り戻す機能という側面を持つ。これを応用すればインフレ制御ができるという論理的な帰結は得られるが、多分うまくいかない。何故なら税率は前もって宣言する必要がある。ここに社会契約の本髄がある。

 

その宣告に基づいて企業活動も市民活動も未来を予測して構成しているから、インフレだからと急に税を上げると、恐らく税が払えず廃業する企業が出現する。これに対する手当がそう簡単に出来るとは思えない。一年毎に見直すといっても現在の社会システムはその頻繁な変更に耐えられるとは思えないし、この時間ラグの発生は最大の短期的利益を狙った投資などが活発に動き、経済は更に複雑な動きをすると思われる。

 

税は必要なコストでなければならない。つまりリスクになるようでは経済は動かなくなると思われるのである。税がリスクになるとは税が上がるに等しい。よってその逆はない。一度下げた税を上げる事はだから簡単ではないはずなのである。それを許容する国民がいるとは考えにくい。簡単に暴動に発展するだろう。日本国政府も一度はその恐怖を味わった方がいいのである。その点、アメリカ政府はしょっちゅういろんな理由で恐怖を味わっているからあしらい方は上手い。

 

いずれにしろふるさと納税という制度は端境期の税制であるから、いずれ首都圏ごと沈み込みが発生する日本経済においては、その次の準備が必要と思われる。ではどうするか、という話であるが、これがなかなか難しい。

 

単なる人口の増減という問題ではないのである。労働力では年齢の構成比が重要である。伊邪那美のいう一日当たり1000と伊邪那岐のいう1500人とは老人と若者の対比であったはずだ。その比が崩れる状況を知っている者は八百万の神の中にもいない。日本以上に中国はこの人口比が重くのしかかる。20世紀が夢見た長命が破綻しかけている。

 

永遠の命などネジとして永遠に働けるから成立するのである、それが証拠にメーテルが号令をかけたらみんな仕事を放棄して星はつぶれてしまった。一般的に国家の衰退は労働力の減衰の結果であろう。その減衰が何に起因するかは様々であるが、通常は資源(人も資源に含む)である。遂に最後は意欲の問題になる。希望を奪えば人は働かない(AIなら動く)。

 

つまりふるさと納税に希望を見出している間はまた地方はなんとかなる。この制度が振るわなくなる頃にさて、どうするか、それを考えている人は沢山いると思われるが、恐らく誰一人としてこうすればいいという道筋を見つけていない。

 

だから地方自治体同士で残りもののパイを奪い合う狂騒を始めた訳である。なぜかつては、もっと貧しい時代であっても、出来ていた事が我々には出来なくなってしまったのか。なんとか人の献身だけで成立していたものがもう限界を迎えつつある。明治の貧困の中で出来ていた事さえ放棄しなければならなくなりつつある。

 

我々は新しく何かを取り込み、その結果としてそれが負担に変わりつつあるとしたらどうすればいいのか、もちろん元には戻せない。となると現行の仕組みの中で対応するしかない。それを自然の流れに任せて見出すしかない。そういう意味でこれは壮大な社会実験なのである。

 

さて、我々の何が変わってしまったのか。何が高コストの原因か?