タブー越え 独初のヒトラー展

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同じ敗戦を経験し、似たようにボッゴポコにされたもの同士。もうとっくに先の敗戦については片を付けたとばかりに思っていたけれど、独逸もあの敗戦には、未だ残尿感が残っているようである。

 

戦後、ドイツ人がヒトラー、及びナチスのみを「悪者」にしてしまう事で、国民自らが選挙でヒトラーを選んだという歴史的事実は棚上げとし、事実上スケープゴートとして扱って来たがいよいよ誤魔化しきれなくなった、という事だろう。

 

戦後、多くのドキュメンタリー映画などで「大衆を扇動するヒトラー」のイメージを繰り返し垂れ流してきた。それが国民にとっては好都合だったから。自分たちは「扇動された被害者」であると納得できたからだ。


それでは、ドイツと日本の戦後の軍備のあり方はどうだろう。日本のような軍備廃止を目指すことはなかった。これは多分にすぐ隣接するソビエトがあった。国境を海に面する日本と陸であるヨーロッパの違いがある。

 

例えナチスが悪者であろうと、国境沿いに隣いるソビエト連邦およびワルシャワ条約機構の脅威の前ではヒットラーの失敗など小さな事だ、我々はナポレオン、ヒットラーに続く三度目の独ソ戦で敗北する訳にはいかない。

 

東西冷戦でヨーロッパとアジアの立地の違いが戦略の違いを生む。それは主戦が陸軍と海軍の違いともいえる。日本ではヒステリックなまでに毛嫌いされる徴兵制が今も残っている。

 

専守防衛(国外に派兵しない)は同じ考え方だったようで、ドイツ連邦軍は1991年の湾岸戦争には参加していない(日本と同様)。そこで批判が起き、1990年代以降PKOへの参加を決めている。

 

この辺りは日本と歩調を同じにしている。あちらはヒトラーを悪人にする事で幾つかの問題からは目を逸らす事が出来た。日本でも同様に東條英機に筆頭に陸軍をそのように位置づけようとしたが、王を持つかどうかの違いは大きかったように思う。

 

王の存在がある意味では国家の失敗や間違いを浄化する機能を持つ。この場合は、都合よく忘却すると呼んでも良いが、それが出来た日本と出来なかったドイツ。

 

封じ込めてもそれはむくむくと頭を持ち上げてくる。コンクリートを割って生えてくる樹木のようだ。忘却してもそれはぞろぞろと追いかけてくる。水底から伸びてくる手のように。

 

あの戦争を幾ら反省しても答えは見つからない。答えが見つかったならネオナチが生まれる筈がない。それは自分たちの過ちではない筈だ、それが自分たちの姿そのものなのだ。ある条件さえ揃えば発動するドイツ人らしさ、日本人らしさと言うものがある。

 

それは人間に共通なのか、偶々我々はそのような状況に追い込まれてしまった、または無知にもその方へ自ら進んでしまった。それとも我々の独自の文化の背景に宿っているものなのか。

 

勝利を放棄してから60年、焼野原からの復興は早かったが、おじいちゃんの負けは、孫や曾孫の代でケリをつける、ニームの隔世遺伝という意味である。