小沢氏「米国人は単細胞、英国は紳士面してる」

読売新聞は「米国人は好きだが、どうも単細胞なところがあってだめだ」と報じるが、他の報道機関は「米国人は好きだが、どうも単細胞なところがある」と報じる。「だめだ」と言ったのか、言わなかったのか。そこで感想から批判に転じる。

 

今、他の記事では高飛車について論争中だが、この記事読んでいると、これこそ高飛車だと思う。流石読売である、記事に色を付けるのもお上手。どこにも全文がない。全文がなければ、何を思えばいいのか。伝聞は根拠にならない。

 

150年前、アメリカに渡った日本人は、えらい感動したり、感激したりして、驚いて帰ってきた。60年前だって戦々恐々とかの国を見て帰って来た。それがいまや「だめ」呼ばわりするとは。これは凄い変化だと思う。


全然、劣化なんかしてないよ、と書こうと思ってけれど、どうも、新聞社にばらつきがある。これを発話した講演は自分自身の政治塾だし、恐らく外に向けて発言する気もなかったであろう。居酒屋での与太話をあれこれ言われても困るだけだろう。

 

ありゃだめだ、呼ばわりするなんて、普通に、何処でも、何時でも、今日も行われてる。公人だから発言には気を付けて、というが、この程度の内容で気を付けるも何もありはしない、という気もする。与太話、それもかなり酔っぱらいの、程度を超えない。

 

FOX TVの刑事ドラマでも見れば、あの国に問題がない訳でない事は彼/彼女ら自身がとてもよく分かっている事くらいよく分かるのである。それでも、彼/彼女らは彼/彼女ら自身でドラマにしてみたり、映画にしたりして、それに取り組んでいる。

 

一口に米国人といっても2億人はいるのである。民族も多様だし、背景も、ルーツも、文化も、居住区だって多様だ。その全員の名前を知ってる訳でもないのに、顔だって、声だって思い浮かばないのに、それを十把一絡げに、だめだなどと乱暴な発言はちょっと怪しい。世界が狭い以外の理由が見つけられそうにない。


全文があっても同意出来ない所はあると思う。それでも小沢一郎の発言は昔はもっと鋭かったんじゃないかという気がする。あの熱狂はなんだったんだろう。

 

今や、新聞があやしいのか、小沢一郎があやしいのか、保留。