「特捜はお家断絶」と悲痛な声

司法からのNOを発端としたこの事件、それでも、彼らの過去の仕事についての見直しはしない。過去への検証は必要だと思うのだけれど。

 

こんな組織は潰してしまえ、と言うのは簡単だが、それでも必要欠くべからざる仕事なら、潰した後には、それにとってかわる組織が近く作られるだろう。

 

それが同じ過ちをしないようにどうシステム化できるか、それとも、それはずうっと注意深く監視してゆくしかないのかの検証が必要だろう。

 

おのずと組織が腐敗するものなら、絶え間なく常に注意深く運用に気を配る必要がある。それがシステム化して組み込めるか、という問題になる。

 

新しい組織に、新しい縛りを適用すれば、後はほっておいても大丈夫なのか、それとも常に腐敗する危険性はあるのだから、ほっておいては駄目なのか。

 

多くの場合が後者なのだから、潰す事は解決にはならないという意味になる。潰そうが残そうが新しいシステムの導入が必要なら、そこに注力すべきだろう。

 

注意すべきは、検察官の人間性に頼った再構築であってはならない事だ。人間頼みの組織は必ず人間頼みにより腐敗してゆく。


性善説だろうが性悪説が関係なく、システムは常にバックアップとリカバリの仕組みを持つべきなのだ。


更には、今回だまされなかった司法が偉いかは好運であろう。たまたまそのような裁判官が当たった。そうでない裁判官ならどうなっていたか分からない。ここでも人間頼みの危うさが潜む。

 

今まで散々だまされた可能性はないの?という検証は、司法の在り方とペアで言及されるべきだろう。司法が検察側に有利な判断を続けてきたとはよく言われるが、司法が証拠を疑ってみる立場、つまり、疑わしきは被告人の利益にの原則をゆがめる立場に立った事はないのか。その検証も必要だろう。

 

もし司法がだまされていたとしたら、それは司法の能力なのか、それとも、検察側の提供した証拠が巧妙だったのか。それを検証する機関はあるのか。それは正当に評価可能なものなのか。そのための三審制ではないのか。

 

司法判断には一定の合理性が必要であり、その判断の合理的は基本疑っていては組織は成り立たない。その為に国内でも最も難しい試験を割り当てているのだ。

 

もしそれでも駄目なら新しいアルゴリズムの開発が必要ではないか、という話になる。

 

裁判官と検察官が騙し合いの形を取る事はは望ましくない。同様に裁判官と弁護士が騙し合うのも望ましくない。

 

だが、裁判官は、検察から被告を守る最後の砦である事も重要な視点であり、この事件は、検察の不祥事と言うよりも、司法制度の脆弱性に対する極めて重要な示唆になっていないか。