日本コカ・コーラ、ミセス新曲「コロンブス」めぐり「我々が大切にしている価値とは異なるもの」

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問題のある時の謝罪というものは、一つの定型が生まれつつある。曰く、「配慮不足」が問題で、「誤解」を与えた事を「謝罪」する、傷つける「意図」はない。

 

これは政治家が率先して流行らせたものであるから別に市民が多用した所で問題がある訳ではない。もし問題があるなら、その前の段階で糾弾すべきだからである。

  1. お答えは差し控える
  2. コメントは差し控える
  3. 説明責任を果たしたい
  4. 記憶にない
  5. 今後も対処してゆく
  6. 誤解を与えたのなら
  7. 混乱を与えたのなら
  8. 不快を与えたのなら
  9. よく言い聞かせておきます

等々。

 

これらは最大限に責任を回避しつつも謝罪を押し通す手法である。魚雷を避けながら航行する大和みたいなものだ。関係ないふたつを並列にしあたかも関係している印象を植え付ける。

 

あたかも朝三暮四の答弁である。論理的に、前の言葉は、謝罪の理由になっていないのである。その説明でもない。しかし、そのふたつを並べるとあたかも原因と結果のような構造と受け取ってしまう。

 

誤解を与えたのなら、誤解する方が悪いのが常識である。そちらが無知だから勝手に誤解したのである。しかし、誤解するほど無知な人間への配慮が足りなかったのだから、説明不足である事はこちらの瑕疵と認めてもいい。だからそこは許してください。

 

そいいう論法である。論理構造がこうなっている。よって、主張そのものは取り下げない。主張は取り下げても論理的な瑕疵はない。決して主張そのものが間違っていたのではないのである。でなければ、発言した自分が馬鹿と認める事になる。

 

この構造は、誤解させた方が無知でも通用する点にその威力がある。それでも意図を汲み取れないのは、受け取った側の能力不足という立場が構造的に揺るがない。

 

だから、誤解を与えたのが問題であり、話しの本質は何ひとつ問題がないという意味になる。だから本当は表現した側には場面ごとにその全ての意図を説明する義務が発生する。誤解させたのが悪いなら、それを取り除くのは表現者の側にあるからだ。

 

その説明の結果として成る程、その通りだとなれば問題は解決する。誤解を与えたのは申し訳なかった、こちらも、正しく読み切れなくて申し訳ない、と痛み分けで手打ちである。

 

PVなら、各シーン毎に、場面の説明、服装やアイコン、暗喩、比喩、背景、演出の意図を全て説明する必要がある。そうして何を狙った効果かを説明する。そこには自分たちがどのような知識に基づいてどのような主張へと繋げているかその整合性も示す必要がある。

 

その上で批判に対して、どのシーンのどの表現がどのような意図で撮影したがこうこうこの点で配慮不足だったと説明しなければならない。その配慮が足りなかった原因は何かも、詳細でなければならない。それはこういう配慮をしていればこのシーンは成立するというものでなければならない。

 

配慮不足という以上、大きな変更はなくとも対応できるという意味である。コンセプトは維持したまま基本的に改修可能という意味である。配慮不足でした。全面刷新ですでは、理屈が立たない。それは考慮不足というものである。

 

ビジネスなら謝罪して取り下げ被害を小さくするのが最小のコストである。だが表現者はそうはいかない。凡そ決して引き下がってはいけないライン上に立っている。ここで取り下げるなら表現者というイメージは消えてしまう。

 

最大の問題はこれが組織的に進んでしまった点にある。その意味ではこれは矢張りビジネス上の失敗なのである。所が表明としては表現の問題として処理しようとしている。だから疑惑が残る。ここにおいて起きた欺瞞は警戒心を消さない。ビジネス上の無知、不勉強で取り下げる方が実は簡明だった筈である。

 

これが配慮不足なら、知識はあったのに、という意味になる。誤解を与えたのは演出の不備、不足、不明の為である。これは表現者の立場でビジネス上の問題ではないというスタンスを維持しているので、逆に本音はビジネス上の配慮にも見えてしまう。

 

これらの謝罪論法は説明回避の構造を取り、その場を乗り切る手法として定着している。この台詞は言いました。あとは蓄音機になります。もうこれ以上追求しても何も出てきませんよというサインにもなっている。マスコミも無駄と知っているからあっさりと追求を取り下げる。阿吽の関係になっている。これは無駄なコストを排除した一種の調和だろうか。

 

もちろん、彼らに石を投げていいのは、コロンブスがクズであると知った年齢が彼らよりも年下の場合だけである。なぜコロンブスアメリカ大陸の発見(1492)をテーマとしたのか, 実際は西インド諸島であるが、彼に関してはwikipediaを読むだけでも、相当にやばいと感じる筈である。それさえなかったのはどういう問題か。

 

しかもこの時代は、コルテスによるアステカ滅亡(1519)、ピサロ兄弟によるインカ滅亡(1526)、などヨーロッパ人の地球規模での残虐拡大の時代である。歌詞に出てくる「500万年」前は類人猿との分岐時期から採用されたと思われる。

 

なぜ500万年間以降の人類の結実を「コロンブスの高揚」にしたのか、不思議である。彼などたかが帆船の侵略者である、人類の到着点ならアポロ11号とかボイジャーではないのか。なぜ、それでは駄目だったのか。

 

宇宙と類人猿の組み合わせは2001年でキューブリック(1999)が既にやっている。造形の完成度の高さなら緒形直人北京原人(1997)とか、正常位の起源としての人類創世(1981)とか、制作陣が知らなかった事はないと思うのだけれど。

 

更にはコロンブス(1501)とナポレオン(1821)とベートベン(1827)の組み合わせである。はて、どんな関係が、この三者には。偉人漫画かしらん?それぞれが好きな人物?

 

どうやら恋愛と冒険とを結び付けた歌詞なのである。「オーロラ」を出すなら南極のアムンゼン(1928)かスコット(1912)ではないのか。北極はよく知らない。植村直己を知らないのは仕方あるまい。

 

なぜ500万年との対比がコロンブスなのか、なぜMVで類人猿に車を引かせているのか。どういう意図か。白人のやった事をコミカルに見せながらその通底での文明批判なのか、そういうカリカチュアの手法を採用したのだろうか。それなら申し訳ない、その演出意図は誰も見抜けなかったようである。歌詞にもそのニュアンスはなさそうである。

 

「見つけた細胞も」「炭酸の創造」とか意味深な雰囲気はあるけれど。

 

いずれにしろこれはビジネスの問題である。だれが予算を出したと思っているのか。MVの監督は誰なのか、演出は誰がやったのか、衣装を用意したのは誰か。セットを組み立てたのは誰か。全て予算が計上されている。その上で、このシナリオでこのまま突き進んだ理由が分からない。

 

とはいえもし自分がこの現場に居たらこの状況を回避できたのか。そのの自信はない。世論という意識がふっと抜け落ちる可能性は常にあるからだ。

 

これが音楽である以上、表現の前にビジネスがある。このMVで何かを伝えたかったのは確かである。なんらかのイメージを欲した筈なのだ。それが何であったのか。類人猿に馬車を引かせておいて、ホームパーティーで仲良くはありえない。

 

だが、もしこれが、アメリカの一種の白人層の屈折した人たち向けのメッセージならば?このビデオを笑う人達の気持ちを、ポリティカルコレクトネスやブラックライブズマターをうるせえよと思っている人たちをターゲットとする思惑があったならば。

 

そういう解釈さえ可能なのである。この説明では説得力がない。だから絵コンテとラフスケッチは公開した方がいい。それは見てみたい。