「沖縄は私たちの領土」…声を高める中国

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領土問題と言えば囲碁囲碁と言えば領土問題。日本、韓国、中國の間ではそう決まっているとしたものである。

 

どの世にも既に決まった陣地に打ち込んでくる人はいる。それで手抜きするか、答えるかは受ける側の自由、打ち込んだ側の自由ではない。

 

受け損なって復活したとしても、それは受け手の誤りである。それが相当な間違いの場合、囲碁の解説者は、それを事件が起きたと言う。

 

日本だろうが、中国だろうが、韓国だろうが、とんでもない主張をする人はいるものである。言うのはタダだし、上手く転べば儲けものなら、言わない手はない。それで不利益を受けないなら、投入する価値がある。相手が受ける限りは、その手は一手パスではない、とは言え、そう簡単でない場合があるから囲碁は幽玄なのである。

 

だから相手の手をどう受けるか、という問題に尽きる。

 

国家間の場合、それぞれ個人にも意見はあるだろうが、最終的には、海上保安庁海上自衛隊、および陸空軍、その見込みを受けて政府の決定という事になる。素人でも口をだす自由がこの国にはあるが、決定する自由はない。変えたければそれを争点にして投票で決めるしかない。だが、それも一歩間違えれば衆愚政治ポピュリズムである。これに安全弁はない。

 

本気で領土問題にするのなら変なら、先ず外務省の問題となる。そして何より沖縄の人の選択という部分もある。

 

とは言え、ある市町村に対してどこかの国が帰化した上でその市町村の殆どを占める程の移住をした上で、議会、役人などに終了した上で、独立、または元国籍国への帰属を宣言したとしたら、その市町村の決定は有効であるか。

 

それを許す国家はないものと思われる。そのような自由を見過ごす民主主義があるとは考えられない。それをその地域の人にインタビューする必要はあるにしろ、最終的には、政府関係への取材をして然るべきと思われる。

 

沖縄が何処に帰属するか、現在は日本、その前はアメリカ合衆国、その前は薩摩藩、その前は独立した琉球王朝であった。これらの過去を無視して考える事はできないにしても、無視しなければ考えられないものでもある。

 

沖縄で生きるとはこの翻弄の中で生きる事でもある。それは世界の各地域で、歴史の上で、よく見られる記録である。

 

記憶を失ってはならない。