坂井秀至七段初タイトル、張栩碁聖5連覇逃す

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坂井秀至(さかい ひでゆき)七段はおでこが少しシャープな棋士だが、天下の張栩(ちょうう)を下すとはお見それした。

 

チューリングマシンよろしく、空想上の機械があって、それは囲碁の全ての読み筋を一瞬で行えるとする。これは全てのパターンのデータベースを持ち、その中から一つを検索する能力に等しい。

 

全ての打ち筋は莫大な数だが、無限ではないので、最終的には、勝ち、負け、無効の3種類の結果が得られる。

 

無効があると話が複雑になるので除外しておく。勝ち負けだけを比率にすれば、例えば、49:51のような結果が得られる。

 

相手が一手打つ度に残り棋譜数の比率を求めれば刻々と変わる勝率の変化を表現できる。例えば一手打ち、51:49、次の一手、42:58、次の一手、68:32 のように。常に互いに、次に打つ手は、全ての読み筋の中から勝ちになるものがある候補を選んでいる筈である。

 

初手となる石の位置は、最大19×19(361)から選択する。その石から始まる棋譜の一覧の中には莫大な勝ち譜が残っている筈であり、どれかを選択する事は、他の勝ち譜は捨てるに等しい。

 

その時の選択の基準は、一番勝ち数が多い一手を選ぶことであろうか。必ずしもそうとは言えない。その選択が相手の一手によって勝率が"0%"になるようなケースだとそこで敗北が決定する。相手が正しく相手を負けにする道筋が選びやすいなら尚更である。

 

よって相手の手がどのような手であっても勝ちが残されている手を選択する必要がある事になる。相手に此方の負けを確定させる手を打たせない事になる。

 

お互いに勝ち譜を持っているとして、相手の手に応じて勝ち譜から一つを選択してゆくことになる。このように棋譜を突き合わせて唯一の勝ち筋を決められるだろうか。そこから究極の棋譜を一枚選ぶ事は可能だろうか。

 

究極の棋譜とは、囲碁を無意味にするもので、誰が打とうとも勝てる棋譜と言う事である。果たして、そんな究極の棋譜は一枚だけなのか、それとも複数枚あるのか。

 

またその必勝法は誰にでも使用可能なのか。勝利する為には一千万の選択の全てで正しくなければならない、という事なら、究極の棋譜とは人間の記憶容量の問題と同値になる。

 

交互に打たれるため、お互いの最善手を選ぶという事は、互いに勝つ可能性のある棋譜を差し出す事になる。

 

よって、お互いに勝つ棋譜を場に提出してゆき、先に勝ち棋譜が無くなった方の負けとなる。これは運動会の玉入れに同じである。

 

前に示した勝敗比率の計算は、勝ち譜の枚数で計算する事と同じになる。相手の勝ち譜の数を減らすのがよい対手である。とまでは言えない。自分の勝ち譜を減らさないのがよい対手である可能性もある。どれを選ぶ事が決定的に勝ちになるかは、相手の出す手に応じて決定する。

 

結局、相手の勝ち譜を最大限に減らし、かつ、自分の勝ち譜を最小限にする道筋が求められる。この結果が一つの棋譜となる時、それが勝ちの決定となる。

 

相手がどのような手であれ、あらゆる相手の手に対応できる勝ちの棋譜が残っている限り負けはない。そのような棋譜が無くなった時点で、相手がそれ以外の手を出してきた時点で負けの確定となる。

 

これがゲームの終了地点となるが、これ以外の棋譜は全て、最善手ではない、としてよいか。ある時点で選択できる手の候補が10個あるとして、そのうちから一つをどうやって選ぶかはアルゴリズムの問題である。

 

さて、アルゴリズムだけで必ず黒が勝つ棋譜を選び続ける事ができるか。もしそうなら先手必勝のゲームが確定する。必ず白が勝つなら後手必勝のゲームになる。これがコミ数毎に最善が変わってくる筈である。

 

あらゆるアルゴリズムが試され、勝率が100%のアルゴリズムが残れば、これが究極であるとなるが、もし最大の勝率が99%であるなら、これは究極の棋譜とは呼ばない。ではなぜ99%となるのか。その理由が厳密に説明できなければならない筈である。それはアルゴリズムの欠陥があるのか、それとも人間ではそれは改修できないという事か?

 

結局、全ての棋譜を網羅できたとしても、それだけなら一枚の棋譜である。DNAを全て解読した所で、それが何であるかが理解できた訳ではない。理解したとしてもそれだけであるかまで分かった訳でもない。未来にそれがどのように変化しどのような信かの因子となるか、まで予測する事は難しい筈だ。

 

人間に言えるのは、可能な事は起きても不思議ではない。絶対に起きえない事なら排除できる、という事になる。

 

どの勝ち譜を選んでも相手もその中から何かを選ぶ。これはツリー構造を順々に最下位まで辿る事に等しい。それを交互に選ぶんでいる。ひとつずつその下だけを考えれば十分である。

 

つまり究極の棋譜といっても初手の分だけある筈だし、二手目の変化する数だけある筈である。そのパターン化ともいえる訳である。○×ゲームは全ての初手に対して応じる手が研究され、全てのパターンで引き分けに持ち込む手段がある事が知られている。それを回避する方法が両者にない事も知られている。そのため互いに引き分けを目指すしかないゲームとなっている。

 

囲碁でもその状況になれば、全てを解読したと言えるが、その総数が多すぎて、人間の記憶容量を超えている。そのため、究極の棋譜と言われた所で、この考え自体が無意味な可能性もある。

 

全てを網羅した数が多すぎる事、そこから勝敗が決定するとして、どちらも最善を目指すにしても初手が違えば最善が違う可能性がある。すると、黒勝ちの初手と白勝ちの初手がある事になる。それに対してコミを調整すれば、必勝のパターンとは初手の組み合わせがとても沢山あるという意味になるだろう。

 

組み合わせによって結果が変わるのであるから、アルゴリズムもその数だけ必要となる。それは万能の最強のアルゴリズムと呼べるのだろうか。全てを網羅しているだけでは、最強という感じがしない。それは人間が求める最強とは少し違う。

 

自分が選択したアルゴリズムと相手のアルゴリズムに勝率があるとして、それをお互いに突き合わせれば、これは突き合わせ次第で勝敗が分かれる事になる、という状況であるからゲームが成立しているのではないか。

 

つまり囲碁に関しても神もサイコロを振る可能性があるわけだ。このようなコンピュータが出現した場合、プロの棋士は勝てるだろうか?


先を読む能力からしてプロ棋士でも勝てはしないだろう。だが、棋士側もこのコンピュータは使っていいとすれば、どうか。勝ち譜の残数や相手の手への対応の多彩さをパラメータとして手を選択する事ができる。


すると、囲碁もBJのような確率を楽しむゲームとして残る可能性があるか。どの一手に対しても囲碁では偶然の要素がない、と思われるが、麻雀にしろBJにしろ次に来る札を選択する自由はないがそれでも有限の組み合わせと見る事ができる。

 

これは囲碁で一手を選択する時に、その先で、白がどのような手を打ってきても黒が勝利する棋譜が残っているとする。白にも残っているとする。どちらも自分の側で勝利を決定できる部分がある棋譜を選ぶだろう。結局はそれが先になくなるのは白と黒どちらであるか、という話になる。

 

ゲーム理論では、囲碁は二人零和有限確定完全情報ゲームなので、隠された情報がないので必ず、先手必勝、後手必勝、引き分けのいずれかに集約する。そのようなアルゴリズムがあるとすればそれと戦っても絶対に勝てないとなる。全てを読み切ったコンピュータ同士が対戦すれば、この理論が示す通りの結果となる。

 

人間は未知の情報に対しては、プロの勘というもので最後は決める。それらは確率へのひらめきと言えるものであろう。こうすれば上手くいく、というのは決して最後まで読み切った上での話ではない。その先で、もしかしたらその状況こそが実は敗因となる可能性さえある。

 

架空の全てを決定できるコンピュータが存在するという事と、人間がそのような機械を生み出す事ができるか、という事は異なる。そのようなコンピュータがあっても人間は囲碁を楽しめるか。そのようなコンピュータがあっても、その答えそのものが人間の人間の記憶量も推論さえも超えたものである筈だ。

 

単純に、こうすれば勝てるという全ての手を全て記憶する以外にこのゲームに勝つ方法がない、という事は、究極の棋譜というものはないという意味でもある。または究極の棋譜とは全て勝利する棋譜という事になる。

 

結局の所、調べればどこかに不味い手がある。それは凡そ敗着と呼ばれるものである。それを我々はミスをしたと呼ぶ、ミスである以上、正しい手があったという事になる。

 

そしてゲームにおける勝敗が確定している以上は、どこかでミスをしたに決まっているという事になる。ならばゲームとはミスの仕方を楽しむものという事になる。

 

人間の能力では零和が満たせないのでゲーム理論は成立しないと思える。