政府・日銀 追加で3兆円規模の「覆面介入」か

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日銀の介入は、財務大臣の代理であるから、実質は財務省官僚が決断する。恐らく、どれほど有能な政治家であっても質疑応答の末に官僚の言を採用する事になるだろう。

 

納得するかどうかは大臣にとって重要な資質であるが、政治家の常識で細部までは詰められず、基本的な方向が正しいのであれば、専門性が高くなるほど最後の決断は、部下を信じ責任を取るという形に落ち着く。これはもう政治家は人を見抜き、部下は状況を見抜くという棲み分けで組織を回す極意とも言える。

 

もちろん、専門性があろうがなかろうが、官僚の説明は十分に受ける必要がある。そして自分の中の常識を軽んじる決断は慎むべきである。事は簡単である。どういう形であれ納得しなければ承知しなければよい。そこに政治家は命を賭けてよい。

 

それでも、最終的には毛利の殿様のそうせいで行くしかあるまい。

 

介入の中心にいるのが神田眞人であるのは凡そ間違いなく、恐らく実務を担っている。という事は論理性の全てはこの人の中にある。我が国が東京大学を頂点とし組み立ててきた教育、および社会・組織における人材育成の総決算ともいえる体制がここにある。そういう体制で挑んでいるのであって、ここで失敗するなら日本に適材は居ないという訳である。

 

この人は独自のルッキズムにより相当前から見聞きしてきた人物の一人である。財務官として有能と聞いた気はする。中心である事はたぶん間違いない。だからと言って、思想信条を語ったテレビは見た事がないので、どのような経済理論を学び、日本の国力をどう見ているか、どの方向に向かおうとしているのかは知らない。経済学の教科書のひとつでも書いているなら何かが分かるかもしれないが、生憎こちら側に見合うだけの経済学がない。

 

選択と集中」の本丸となる人らしいのでたぶん意見は合わない。モノの見方に賛成する事はないと思う。だからと言って、少ない予算を如何に分配するかと問われたら、確かに「選択と集中」やむなしも結論として浮上する。だから最初から敗軍の将と呼ぶのが相応しい一人なのかも知れない。陸軍の官僚かくあるべしの系譜かも知れない。

 

金融市場も馬鹿ではない。極めて合理的に未来を予測し、利潤という法則に従って動く。戦争中であろうが、なかあろうが、それはもう、虫のような正直さで群がってくる。ある意味ではパニックなどをしない生命体ではないか、だから肉を断ってみたいな投機はしない。

 

外国為替市場への介入と言っても、円を買うか、円を売るかである。早い話がお風呂の温度と同じである。熱いなら水をくべ、温いならお湯を足す。

 

円高にしたければ、市場から円を引き上げればよい。品薄の商品は高くなると決まっている。円安にしたければ、市場に円をくべればよい。余剰の商品は値段は下がると昔から決まっている。

 

その場合の売買の手段はドルであるらしい。その他の通貨でも行けると思うが、いずれにしろ、円安に関しては手段的にはお札を刷りまくって市場に出せばよいので簡単だ。その結果としてドルが手に入る。

 

だから円高にするのは難しい。手持ちのドルが限界点だからである。ドルが亡くなれば、撃つ弾が尽きたという訳でウクライナみたいなものだ。耐えて耐えてやり繰りするしかない。

 

為替市場は超巨大なお風呂である。別府温泉の大浴場みたいなものである。そこに介入すると言っても、たかが洗面器に水をいれるかお湯をいれるか程度の量だ。数兆円(10^12)を投じても、市場規模は京(10^16)とか垓(10^20)である。千円札を持っている人に一円玉5~6枚で交渉しようとしている訳である。

 

沖縄戦で日本が受けた損害に戦車27輌というのがある。如何に主兵力が野砲とはいえ、アメリカの損害は戦車272輌である。アメリカはそれ以上の戦車を上陸させていたという事だ。つまり日本は戦車を30輌くらいしか用意できなかった。用意しても運べなかった、または最初から意味がないと断った。

 

確かにアメリカ軍の死傷者数20,195は多いと思う。それほど死力と知力を尽くした戦場であったのは間違いない。凡そ日本はこの局面に可能な全戦力を投入した。海軍は菊水作戦で戦艦1、軽巡洋艦1、駆逐艦5の損害を出したが、この被害を少ないと見るべきではない。もうこれだけしか残っていなかったのである。

 

為替市場への参加者の数は全世界で莫大であり、それが大河の流れとは言え、それぞれの水滴は小さなものである。日銀はその中ではかなり大きな水流であろうが、それでも大河の中ではやはり小さきものである。急流を生み出したり、濁流となる水量ではない。

 

1プレイヤーでどうこうなる世界ではない。金融市場は現在の人類社会を代表する存在となっており、ここに参加する人たちの動きは、ひとつの集合知のようである。

 

冷徹に厳然と見つめている目があり、相手の動きを読み切る。囲碁将棋と同様に相手の裏をかく、泥沼に引きずり込んで戦いを挑むような所がある。それで円安への警戒感をもたらしたければ、破産する被害者が多数出るようでなければ効果がない。それでも被害者には見向きもせずあっという間にあるべき場所に元に戻ってくるだろう。

 

まるで金融市場は虫の群れだ。単純に利益のある所に集まってくる。中央銀行は一種の殺虫剤を塗布したり、餌を設置したりするようなものだ。大言壮語できる立場にはない。

 

ハーメルンの笛吹きのように、金を連れてどこかへ行ければいいのにと願うだろうが、経済は交換しない事を許さない。交換がある以上、複数間での関係性が樹立する。そして取引は等価交換であるから、両者の思惑の一致点がある。その上で日本の円が安くなるとは、市場で円が余剰しているという意味だ。それは使い道がないという宣言である。

 

経済原則のひとつは安く買って高く売れであるから、円の均衡点は安くていま買うのがお得という場所にある。経済官僚は、その妥当点も算出していると思われる。何円くらいなら、国力からみて妥当、というのを求める立式は幾つかあるはずである。

 

では国力とは何か、まして円相場の妥当性を何が支えているのか。パラメータが多すぎて三体問題のような気もするが、国力とは生産量の事である。生産物が流通する事で、価値を生む。これは血流における血圧と同じで、流量と流速で決まるような所がある。価格はそれを測定した時の数値という事になる。

 

国際社会の通貨が異なるから価値の違いが生まれる。これは地域差として厳然とある。本当は国内でも同様の筈で、東京の1000円と島根の1000円は異なる。それはそれぞれの価格、家賃、飲食、などの値段として現れる。しかし、国内ではこの違いは何も生み出さない。この圧力差はないものとして扱う。国内の圧力は同じとする。これが地方格差が開く理由かも知れない。

 

通貨が異なれば両替が発生する。この手順により価値の変動が生まれる。固定相場制と変動相場制の違いである。金本位制度が終焉したのは世界の経済規模が所有する金の物質量を超えたからだ。すると、経済の根本には物がある。

 

このモノの取引の上に信用が生じ、未来への予測が生まれ、貨幣という単位が生まれた。この取引が何十億回も起きている事で、流体運動、統計熱力学的なマクロな観測が貨幣という現象が発生する。

 

ひとりひとりの今日の売買が、この経済を動かしている。そのたった一滴がいつか堤防を打ち砕く蟻の一穴になりうる。